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ジョセフ・ライト (画家) : ウィキペディア日本語版
ジョセフ・ライト (画家)

ジョセフ・ライト(、1734年9月3日 - 1797年8月29日)はイングランド画家ライト・オブ・ダービー()と称され、風景画や肖像画を主に描いた。彼は「産業革命の精神を初めて表現した画家」として高く評価されている〔F. D. Klingender; quoted in Ellis Waterhouse, ''Painting in Britain 1530 to 1790,'' Fourth Edition, New York, Viking Penguin, 1978; p. 285.〕。
彼は、光と闇の対比を強調するキアロスクーロ(明暗法)の扱いに優れ、ロウソクで題材を照らした絵でよく知られる〔Encyclopædia Britannica ed.15 vol.12 p.772〕〔オックスフォード西洋美術事典 p.1160〕。錬金術から科学が誕生したことを表現する彼の絵は、イングランド中部在住の有力な科学者・工業家たちが集ったルナー・ソサエティでの議論にしばしば基いていた。そしてその絵は、啓蒙時代と呼ばれた時期の科学が宗教的価値観といかに格闘したかを示す、暗示的な記録となっている。
ライトの絵とスケッチの多くはダービー市議会が所有し、ダービー博物館・美術館で展示されている。それらは時折、他の美術館へ貸し出されることもある。
== 生涯 ==
ジョセフ・ライトはダービーのアイロンゲートに生まれた。父のジョン・ライト(John Wright、1697年-1767年)は弁護士で、後に市の書記となった。母はハンナ・ブルックス(1700年-1764年)といい、ジョセフは5人兄弟のうちの三男だった〔The Dictionary of Art vol.33 p.412〕。ライトはダービー・グラマースクールで学び、版画を模写しながら独学で絵を学んだ。
1751年に画家を志してロンドンへ出て、高名な肖像画家でありジョシュア・レノルズの師でもあったの下で2年間肖像画家として修行を積んだのち、ダービーへ戻り親類縁者や地元名士らの肖像画を描いた〔。1756年に再度15ヶ月間ハドソンの工房に入り、同門のと、その後も長く続く友情関係を築いた〔。翌年ダービーに戻り、そこで専ら肖像画家として生計を立てた。1760年にはミッドランドの町々(、、、リンカンドンカスター)を、やはり肖像画家として渡り歩いている〔。1760年代の初め頃から、暗い室内で蝋燭に照らされた人物というモチーフを描き始めた〔The Dictionary of Art vol.33 p.413〕。その特徴的な明暗法を用いつつ、1760年代後半には彼の代表作ともなった『太陽系儀の講義』(1766年)と『』(1768年)を制作し、これら科学技術を主題とした作品によって、ロンドンにおけるライトの名声は確立された〔。
1768年から1771年の間はリヴァプールで過ごし、主にミッドランドの有力者とその家族の肖像画など、多くの作品を残した〔The Dictionary of Art vol.33 p.414〕。1771年から1773年の間は、『鍛冶屋の仕事場』(1771年)、『鉄工場』(1772年)など、現代的な主題と夜景を組み合わせた作品がいくつか見られる〔。また『老人と死』(1773年)など文学に触発された哀愁的な作品も見られる〔。
ライトは1773年7月28日に、鉛鉱山の採鉱者の娘アン〔ハンナとしても知られる〕・スイフトと結婚した。夫妻は6人の子供をもうけ、うち3人は幼少のうちに死んだ。
ライトは1773年10月にイギリスを旅立ち、翌年2月ローマに到着した〔。このイタリアへの長旅には、弟子のリチャード・ハールストン (Richard Hurlestone)、肖像画家の、彫刻家の(同名の建築家の息子)が同行した〔。またローマでジョージ・ロムニー、、と親交を結んだ〔。イタリアでは主にローマに滞在し、システィーナ礼拝堂ミケランジェロの作品や、古典彫刻・古典建築の研究に勤しんだ〔。ナポリ滞在中にはヴェスヴィオ火山の噴火を目撃し、それはその後、彼の絵の多くで題材として描かれた〔。ライトは1775年9月に、フィレンツェヴェネツィアを経由して帰国した〔。
ライトは帰国後、リゾート都市バースへ移った。肖像画家として当地で名を上げていたゲインズバラがロンドンに移った直後だったため、その後釜としての注文を見込んでのことだった〔世界美術大全集 西洋編 第19巻 p.227〕〔。しかしこの期待は外れ〔、また制作意欲を掻き立てられず、1779年〔ダービーに戻り、没するまでそこで過ごした。彼は自宅で喘息と神経過敏が悪化し、エラズマス・ダーウィンから治療を受けた。妻のアン・ライトは1790年8月17日に没した。1797年8月29日、ダービーのクィーンストリート28番地にある新居でライトは没した。彼は2人の娘と共に、その家で最後の数ヶ月を過ごしていた〔。
ライトはおよび王立芸術院の展覧会に幾度も出品している。後者に関しては、1781年に準会員、1784年に正会員となったが、彼は自らの業績を謙遜して正会員の栄誉を辞退し、脱会した。しかしその展覧会には1783年から1794まで出品を続けた。
ライトは1765年からロンドンで絵の展示を行なっている。1765年-1776年は毎年芸術家協会で、1778年-1794年は毎年ではないが王立芸術院でのものである。また1778年-1783年には自由芸術家協会 (Free Society of Artists) で、1784年-1787年にはリバプールの芸術促進協会 (the Society for Promoting the Arts) で展示を行なっている。ライト・オブ・ダービーという彼の呼び名が初めて使われたのは1768年で、新聞 (Gazetteer) に掲載された展覧会の評論においてである。当時は画家の名前に洗礼名を付けないのが通例だったため、1765年から作品を発表しているジョセフ・ライトと、1762年から作品を発表しているリバプールのリチャード・ライト、2人の「ライト氏」を区別する必要があった。ライト・オブ・ダービーという呼び名は、その親しみやすさから今日まで使われることになった。
ライトは生涯ロンドン以外を拠点としながら成功した初めてのイギリス人画家であり〔、その経歴は当時としては異色のものであった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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